昭和49年08月06日 朝の御理解



 御理解 第44節
 「狐狸さえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。

 先ず人間は万物の霊長としての自覚を促せておられるわけですね。人間は万物の霊長だろうと言う事。そこで万物の霊長であるから、誰でも神にまつられると言う事ではない。死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ、と。だからこれは死んだら神になると、なられるから信心しとれば、有り難い楽しいというそれじゃない。死んだら、神になることを楽しみというのじゃない。神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよというのは、今のことだ。
 信心をしておるという、はあこの信心を続けてさえ行けば、神になり、神にまつられるぞと言う事です。ならこの信心というのは、どう言う事かというと、自分でもそこにはっきりとです、はあこれが御神格というのであろうかと言う様に、教祖様の御教えの中に、この世で神にならずして、あの世で神があるかという意味のことを仰っておられますよね。この世で神になっとらなければ、あの世で神にはまつられないんだと言う事です。霊神としては祀られましょうけれども。
 神としては。だからいかに今信心させて頂くことがです、言うなら御神徳を受けるための信心でなからなければならないかと言う事が分かります。そこでんなら御神徳を受ける信心とは、ならどういう信心かと。今申しましたから分るでしょう、死したる後神にまつられ、神になると言う事を楽しみにせよ。ははぁ金光様の信心さえしときゃ、死んだ後、神にまつられると言う事は楽しい事だ。そんなこっじゃないです。この世で神にならずして、と言う床なんだ。
 この世で神格を受けておかずして、言うなら、神様の仲間入りが出蹴る位な、それは勿論ピンから切りまでございましょうね。けども神様の仲間入りの出ける、この信心を頂いて行けば、出けるという確信を持って行けれると言う事がです、もうその事が楽しいのです。死んだ先に神に祀られるのを楽しみじゃなくて、現在神になりつつ、進化しつつあると言う事、神格化しつつある自分というものが楽しいです。
 それにはならどういう精進、どういうところに焦点を置いて、信心をさせて頂いたら楽しい信心になれるか。死したる後、これなら神にまつられると言う事になる。先日もう十日ぐらい前だったでしょうか。お夢の中で、私は御心眼じゃったか。繁雄おっちゃまと皆が、繁雄さんのことを言うですね。これは神格だと頂きましたね。もう繁雄さんは、だから、神様の仲間入りしてあると言う事が言えますね。
 皆が子供も年寄り、皆誰もが言うならば、繁雄おっちゃま、繁雄おっちゃまと言うのはね、もうだから繁雄おっちゃまちゅうのは、東京の人も繁雄おっちゃまちゅうです。岡山辺りの人も、皆繁雄おっちゃまちゅうのが名前と思ってるです。だから繁雄おっちゃま、繁雄おっちゃまとこう言うんです。この辺の言うなら、あれは何と言うですか、まあ方言ですよねおっちゃまち言う。
 で繁雄おっちゃま、繁雄おっちゃまちゅうのは、言うならば、金子大明神か金光大権現というごたるところまでは行ってないとしても、やっぱり、まあふたばの氏子とこまでぐらい行くんじゃないでしょうか。ですからこれを続けてさえ行けば、良いと言う事です。だんだん神格は、ならもっと素晴らしい神格化して行けれるわけです。昨日繁雄さんの壮年部会でしたから、昨日はもう大変おかげを頂きましたみんな。それに繁雄さんの発表の中に、その合楽でその肥えあげをしとる。
 言うならお取次ぎの場であるところの御結界を、まあ便所だとこういう風に。ほれはみんなが自分の様々な、それこそ心がすっきりするくらいなものを、ここに皆出していく、どんな問題でも。言うなら成程便所のようなものだ。大小便様々な大便小便、大きな問題、小さい問題に至るまで、お取次ぎでこれは願うちゅうことは、そしてすっきりして帰ると言う事は、丁度便所に行っての帰りのようなもんだと。それを誰かがいつもこう、汲み上げたり持って行ったり、お掃除をしたりしなければならん。
 それを今、肥担桶(こえたご)ち言うですねよね、肥担桶にいっぱいして、それを(  )自分の家にまでもって帰っておると言う事。それをなら自分方の田畑の、言うならばまた肥やしに使うておるというお知らせであった。成程そういう生き方ならばね、ここで出すのは誰でも出すんです。お便所を使うのは、誰でも出すのだけれども、便所をお掃除をしたり、汲み上げたりするのを、そのいう意味の私は信心がお徳を受けて行く生き方だと思うですね。
 昨日は秋永先生が、皆さん今、合楽で極楽とか、合楽を現すとかと言う事が盛んに言われておりますけれども。その極楽と合楽と言う事の説明を、どういう風に皆さんなさいますかとこう言うわけ。一人ひとりその、自分の考えを話しておられました。皆さんは例えば、合楽を現すと言う事は、合楽教会を現すと言う事じゃないのです。合楽そのものを現す、合楽そのものを。それはならどう言う事かと言うとね。神も助かり氏子も立ち行くという道を広めていくと言う事。
 今合楽でそのことを、宣伝という言葉を使う。宣伝をして行くのだと。なら合楽と極楽と言う事はです、お互いがもう、合楽の人達は全部、もうなべてまあ極楽にあるんだと。その極楽の自覚というものが出けたら、本当に私は極楽だと、私の家は極楽のおかげを頂いておると言えれる人ばっかりなんだと。それをまだおかげを頂き足らんように思うておるから、その極楽が、いよいよ極楽の成長を見ないのだと。
 極楽におりながら、極楽の自覚がないのだと。それで今の合楽ではです、その極楽という、おかげを頂いておるという事実を、人に宣伝して行くと言う事。合楽で現われておるところのおかげを宣伝して行くと言う事。そこに言うならば教会も立ち、自分たちも立ち人も立ち、自分たちも立ち。神様も助かって下さりゃあ、私どもも助かって行くと言う、そういう生き方にならせてもらうと言う事が、合楽を現すと言う事だと言う様な決意を、なら、皆さんそうなさっておられました。
 結局自分だけのことではない、自分の頂いておるものをです、人にも頂いてもらおうと。自分の喜びをそのまま、神様の喜びに繋がるような信心でなからなければ、ただ自分だけが極楽に行っておると言った様な信心、自分だけがおかげを受けておる。いわゆる、マイホーム的なおかげでは、それはどんなおかげを頂いても、今日の御理解から言うと、神にはなれない、神になる楽しみていうものはない。
 最近自力とか他力とかと、いわば大別すると、過去の信心は自力の信心と言うなら、最近の信心は、もう他力本願だと。いわゆる神のおかげで頂かせてもらうのぞと。言うなら、私はんならもう、ジーッとしとりゃ、神様がどんどん道開いて下さるかと言うのとは違う。だから本当の、いわゆる表現の方法がね、その自力とか他力とか使っておるけれども、どこまでも他力を主として自力だと言う事なんです。今までは自力を主としたところの他力であったと言う事である。
 他力を主であり自力というのは、どこまでも従だと。これは言うならば世界的な、本当に世界を救おうとか、助けるとかと言う様な一つのまあ、構想を練るわけです。これは自力的なものが中心である場合は、とてもそんな世界に及ぼすて言う様な事は出来ません。人間の力てのは、限りがあります。けれども他力と言う事になったら、どれだけになって行くか分からんのです。と言うてなら放っといて良いと言う事ではない。
 神様が夕べも秋永先生が言っとられましたが、最近のもう合楽での日々の奇跡的なおかげと言う事には、本当にものすごいち。この頃からもう、あの何と言うんですか、砒素を飲んで自殺をはかった人がもう医者はもう駄目だと言う。もし良くなったところで、もう内臓というものが、もう全部やられておるち言う。それが昨日、そちらにやらせて頂きましたら、おかげを頂きよる。馬鹿になりよる風でもない、内臓も段々良くなって、その、本当に私は、もうそれを見て驚いたという話を、昨日しております。
 もう今の医学では、もうどうにも想像もつかない出けない。医者はもう全然駄目だと言っておるそれがですよね、おかげを頂いて行きよると言う事からですね。今神様の働きというものが、そういう凄まじいまでにあってるから、私どももやはり凄まじいまでのそれに協力して行くと言うかね。神様と私どもとが一緒に働き合うということ。そこから素晴らしいものが生まれてくる。それを例えばねずみ講的にですね、一人に話せば二人になり、二人が今度話せば、四人になる。
 四人なら八人、八人なら十六人と言った様な生き方で蔓延って行くから、これが世界的なものにまで広がっていくと言う事なんです。狐狸でさえという、ここでちょっと思いますのですけれども。たとえば、低級な信心をしても、んなら、神になるか。そんな狐狸でさえなら、実際は神にまつられるかとね。そう言う事はない。ただそれはまあ何と言うですか、私は昨日これもまあ奇跡ですけれども。
 秋山かずえさんの自動車に追突された警察官の方が、それこそ奥さんの難病の為に、それこそ心も暗くなって。それから病院の帰りに、秋山さんの車に追突したという。それが縁で奥さんがおかげを頂いた。もうこの頃は散歩のけいこをしよるち。もうどんげん考えても、医者もそん人も、ただ「あらっあらっ」というだけだそうです。全然食事がいけなかったのが、追突をした明くる日からね、食事がいけるようになった。大小便なもう垂れ流しじゃったのが、ちゃんとオシメもいらんごとなってきた。
 それで先日お礼参拝して見えたそうですけど、私がいなかったから、昨日またお参りして見えました。はあ、立派な警察官の方です。もうとにかくその方に私が、その申しましたことですけれどもね。とにかく、ただ拝みさえすれば良いというのではありませんと。宗教と私はこげな信仰を持っとるという、その拝みさえすりゃ良いという、言うならばイワシの頭も信心からと言った様な事でです、成程おかげが現われたり、奇跡が現われたりするようなこともあります、イワシの頭も信心からですからね。
 けれどもそれは宗教とは言えません。宗教とはどこまでも読んで字のごとし。宗、ウ冠に示すと書いてあるように。言うなら神様が示して下さる、神様が教えて下さる御教えを教えるのが宗教なんだ宗教とはね。だから合楽でも、いちいち私がこうして御理解をです、皆さんに聞いてもらう。私の頭から練り出したとじゃない。
 神様からヒントを頂いたり、お知らせを頂いたりして、皆さんに伝えておる。合楽の言うなら信心こそ、本当の宗教だと。だからならその神様から教えて頂くことを、習うて行じて行かなければ、言うなら神にはなれないと言う事です。その辺のところをですね、一つまず「信仰、信仰」と言うけれども、結局宗教と言われるほどしの信仰でなからなければならない。それもただ教えが素晴らしいというだけでもいかん。
 それには奇跡と思われるような体験、おかげがどんどん現われてくるような、生きた宗教でなからなければならない。そういうなら、神様を拝むことと、その宗教をすることと同時に、自分が行うて行くことが、なら繁雄さんじゃないですけれども、肥担桶を持ってきて、肥え上げを自分の御用とさせて頂くと言った様な生き方なんです。そういう生き方をして行くことがです楽しみに信心。
 ただ自分がおかげさえ、おかげを頂くから一生懸命お参りをしておったというだけでは、極楽までは行けましょうけれどもね、合楽のおかげにならん。合楽のおかげになり、合楽を現して行くと言う事にならなければです、楽しいね、このままこの信心を進めて行きさえすれば、神に祀られると言う事が確信出来れるほどしの信心を、ここでは言ってあるのだとこう思う。
 金光様の信心しよりゃ、ちゃっと神様にまつられると言うのでのではない。現在神様になりつつある自分が楽しゅうして堪えんという信心。いわゆる教祖様が仰る、この世で神にならずしておいて、あの世に神はないと仰る。この世で神になっておるから、そのまま、神にまつられると言う事になるのです。それにはやはり、最近の信心であるところの、合楽を現す。いわゆる、他力を主とした、自力を従とするところのね。
 大きな信心。昨日桜井先生なんか、ここをもう3~4日はもう、毎日毎日合楽の宣伝にかかっておられる夫婦で。今日はどこに宣伝。もうそういう気持ちでおりますと、もう本当にそこに話さなければならない、助けてあげなければおられないという人達に、こうやって合うて行く。もう、昨日は、桜井先生の発表を聞かせて頂きましたが、もう、聞く者みんなが、もう、みんながこう、躍動するようなお話でした。昨日一日の、言うなら、宣伝して回ったというお話を聞かせて頂きましたが。
 そういう生き方こそです、神になりまた、神にまつられる信心だと思います。お願いをして、おかげを頂いて有り難い。極楽までは行こうけれども、極楽に止まってはならない。極楽のもう一方向こうにです、常持の言うならばもう一つ向こうには、もう合楽が見えておる。その合楽に到達して、その合楽を現して行くと言う事にならなければ、神に祀られると言った様な事には、ならないと思うですね。
   どうぞ。